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雨の裏庭

掌編未満のSSや思いついたシーンなどを気ままに書き散らしていくためのブログです。

 遅くまで残業して帰ろうとしたら、図書館の外には雨が降っていた。壮麗な彫刻に外壁を飾られたこの大陸一の図書館は、王宮に勝るとも劣らない威容を誇っている。天を突くほど高く優美な尖塔も、巨大な石造りのアーチを支えるための支持構造も、全てがこの国の技術の粋を尽くして作られた知識のための聖域だ。
 仕事を終えたシンシアは、彫像の間に隠れるようにして開く小さな扉から顔を覗かせて、思わずため息をついた。右手に抱えた本が、ずっしりと重くなったような気がする。
「傘を忘れたのか」
 振り向いたシンシアは、見知った顔に目を瞬かせた。淡い金髪にサファイアブルーの瞳の、貴族然とした美貌の青年だ。王立魔術学校附属図書館勤務のシンシアとは一応同僚、と言うことになるのだろうか。けれどその仕事の内容は、大きくかけ離れていた。シンシアは地上勤務で、青年――ライゼルの勤務地は地下だ。
 地上にそびえ立つ図書館の姿は、文字通り氷山の一角に過ぎない。王立魔術学校が開設されてから建てられた図書館の地下には、『先人たち』が残した広大な遺構が広がっていた。世界図書館と呼ばれるそこには、世界中の知識を魔術的な方法で蓄積した『魔道書』が無数に眠っている。遺構を守る『守護者』たちを征伐して失われた知識を地上にもたらすのが、ライゼルたちの仕事だった。
「はい、今日は本を借りて帰るつもりだったんですけど……」
 このまま出て行けば、本を濡らしてしまう。自分が濡れるのは構わないけれど、それだけは避けたかった。
「一度、置いてこなくちゃ……」
 半分独り言のように呟いて顔を上げたシンシアは、難しい表情で黙り込んでいるライゼルに気付いてはっとした。
「ご、ごめんなさい。お引き留めして」
「引き留められた記憶はないが」
 反射的に謝ってしまった後で、自分でもそうだと気がついた。確かに呼び止めたのはライゼルの方だ。
「ええと……」
 どう返したら良いのかわからなくて、シンシアは口ごもってしまう。
 いつもそうだ。ライゼルと顔を合わせる機会はそう多くないけれど、顔を合わせるたびに自分は何か失敗をしている気がする。
「寮までだろう。送っていく」
 ライゼルは気怠そうに胸ポケットから小さな本を取り出して、おもむろに広げた。
「えっ、でも」
 止める間もなく、彼は古代語の呪文を低く唱えてしまう。本から浮かび上がった魔法陣が輝くと、二人の周囲に雨よけの結界が展開される。
「ついでだ。気にするな」
 無表情で促されておずおずと隣に並びながら、シンシアはライゼルの横顔を見上げた。
「ライゼル様、方向が逆なのでは……」
 第三王子である彼は、今日は公式な行事があるとかで王宮まで戻る予定のはずだ。そう、さっき同僚が噂していた。
「大した距離じゃない」
 図書館よりも奥まった所にある職員寮までは、五分くらい歩かなくてはならない。大した距離ではないと言われればそうなのだが、あまり話したこともない男性に送ってもらうには少し抵抗があった。
 いや、違う。相手がライゼルだからだ。他の同僚なら方向も同じだし、と気軽に提案に乗ってしまえるはずなのに、ライゼル相手だと緊張してしまう。相手に下心がないとわかっているのに――いや、だからこそ、自分の気持ちがとても醜く思えて、いたたまれない気持ちになる。
 武術に長けたもの特有の鋭い気配を纏いながら姿勢良く歩いて行くライゼルと並ぶには、自分は余りにも誇るものを持っていない。
 会話もなく気まずい雰囲気のまま、寮の玄関に着いてしまった。
「あ、あの」
「もしかして迷惑だったのか」
 お礼を言おうとしたところで先手を打たれて、シンシアは未だかつてないほどに狼狽した。
「ちっ、違います! 全然! そうじゃなくて!」
 慌てて両手を振ろうとしたら、手が滑って本を落としてしまった。
「あっ」
 大事な図書館の本が濡れてしまう。そう思って慌てて伸ばした手は、ライゼルより一瞬遅かった。空中で本を捕まえたライゼルの手に、遅れて伸ばしたシンシアの手が重なる。
「す、すすすすすすみません!」
 真っ赤になって後退るシンシアに、ライゼルは困ったように本を差し出した。
「……いや。俺の方こそ、妙なことを言って悪かった」
「違うんです……」
 目を合わせられなくて両手で無駄に丁重に本を受け取りながら、シンシアはますます真っ赤になる。
「本当に、助かりました。私の方こそ、変に緊張してしまって、不快な思いを……させたのではないかと……でも、助かったのは本当で、むしろ嬉しかったというか……」
 どんどん何を言っているのかわからなくなってきて、消え入るような声になってしまう。ほとんど泣き出しそうになりながら、シンシアはライゼルが小さく息を吐くのを聞いた。
 やはり、呆れられてしまったのだろうか。心臓のあたりがぎゅっと苦しくなったけれど、だからこそせめてお礼くらいは目を見て言わなくては。
 なけなしの勇気を振り絞って顔を上げたシンシアは、そのままぽかんと口を開けてしまった。
 ライゼルはどこかほっとしたように微笑していた。いつも厳しい表情か無表情だから、こんなに柔らかい雰囲気の彼を見るのは初めてだった。
「あの……ありがとうございます」
 呆然と見とれたまま、シンシアは呟く。
「いや……こちらこそ」
 表情を消したライゼルが明らかにかみ合わないことを言うので、シンシアは思わず笑ってしまった。自分でもおかしなことを言ってしまった自覚があるのか、ライゼルは微かに頬を染めて視線を逸らす。
「じゃあ、また明日」
「はい。ありがとうございました。おやすみなさい」
 微かに頷いて去って行くライゼルを見送りながら、次はもうちょっと緊張せずに話せるかも知れないと思って、シンシアは静かに微笑んだ。

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 むかしむかしあるところに、ひとりの年若い王様がおりました。やさしく海が凪いだ穏やかな春のある日、王様は浜辺でひとりのうつくしくたおやかな娘と出会いました。
 娘は浜辺に咲くすみれの花を手折っては、小脇に抱えたかごに集めていました。輝く黄金の髪と雪花石膏のようになめらかな白い肌、そして何よりも楽しそうに歌う、彼女のうつくしく自由な歌声に、王様は夢中になりました。
「うつくしい乙女よ、あなたほどうつくしいひとは見たことがない。私と共に城に来てくれないか。絹も黄金も宝石も、あなたが望むすべてを与えよう」
「いいえ、寂しい王様」
 娘は彼女の前にひざまずいた王様を見下ろして微笑みました。
「どんなうつくしい衣装にも宝石にも興味はありません。この花ひとつあれば、私は望むうつくしさを手に入れられるのですから」
「私の妻になれば、どんな貴族も騎士たちも、あなたの前にひざまずくだろう」
「いいえ、寂しい王様。私はそんなものをほしいとは思いません。だれにかしずかれたとしても、この広い空の下で歌うよりしあわせな気持ちにはなれないでしょう」
「どうしたらあなたは私の気持ちを受け入れてくれるのか」
「あなたが私に、その愛と魂のすべてを捧げてくれるなら」
「私の心はもう既にあなたのものだ」
 そして王様はむりやり娘の手を取って、お城へ連れ帰りました。

 王様のお城は海の上にありました。遠い遠い昔に、王様のご先祖様が人魚の都を攻め落とし、その上に作ったお城です。
 王様は連れ帰った娘を着飾らせ、盛大な結婚式を挙げて妻に迎えました。
 けれどふしぎなことに、黄金と宝石で着飾った娘は、浜辺で出会ったときの半分もうつくしく見えなかったのです。
 どうしてあんなみすぼらしい娘を、と、皆がうわさしました。人々のつめたい視線に、娘はあのうつくしい声で歌うことも忘れてしまいました。がっかりした王様は、結婚して半月もたたないうちに、娘の顔を見に行くこともなくなってしまいました。

 ひとりぼっちにされた娘は、毎晩塔の上で歌うようになりました。その歌声は、もう以前のような浜辺に響くうつくしく楽しげな歌声ではありません。ふるさとから引き離されたかなしみを歌う、聞く者の胸が張り裂けそうなくらいせつない歌声でした。娘のかなしい歌声にこたえるように、海と空は荒れ狂いました。
 嵐の中に響く歌声と、その中に立って歌う娘のうつくしさに、人々はおそれを抱きました。そしていつの間にか、王様が迎えた妃は魔女なのだと、だれもがひそかにささやきあうようになったのです。
 その間も、いくどもいくども嵐は城を襲いました。

 困ったのはお城に仕える船乗りたちです。皆は口々に、魔女を殺して海に平和を取り戻してくれるように王様に頼みました。
 娘の歌を気味悪く思い始めていた王様は、その願いを受け入れてしまいました。

 お城の広場で、あしもとに薪《たきぎ》が積み上げられていくのを待ちながら、木柱にくくりつけられた娘は歌いました。彼女が失ってしまった、どこまでも広い海と空の歌を。それはもはやかなしみに染まった歌ではなく、自由な空を、広々と続く海への、いとしくやさしい愛の歌でした。
 けれどその歌が、王様や娘を魔女だと思っている人々の心に届くことはありません。
 このままでは海と空がまた荒れ狂ってしまう。
 そう思った人々は、急いで薪に火をつけました。炎に包まれながら、娘は歌い続けました。その声を聞いた海と空はかなしみ、怒りました。娘と王様が交わした約束を、彼らは聞いていたからです。
 海と空はお城に襲いかかり、そこに住むひとも建物も、すべてを波間に沈めてしまいました。
 そうしてその地は再び人魚のものになり、火あぶりにされた娘の魂は、彼女を生んだ海のもとへと還っていったのです。
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